鎌倉市雪ノ下、鶴岡八幡宮にほど近い谷戸の高台に、特別な一軒の建物が佇んでいる。旧川喜多邸別邸、通称「旧和辻邸」。年に数回だけ一般公開されるこの建物は、江戸後期から続く民家が、哲学者の住まいを経て、国際的な映画人たちのサロンとなった、まさに日本近代史を体現する建築遺産である。
三度の移築が語る建築の旅路
この建物の歴史は、江戸時代後期に遡る。当初、相模の大山の麓に建てられた古民家として誕生したこの建物は、その後驚くべき旅路を辿ることになる。
最初の転機は昭和13年(1938年)。哲学者・和辻哲郎が神奈川県秦野(大山)から東京都練馬区に移築し、自宅として使用したのである。和辻哲郎といえば『風土』や『古寺巡礼』で知られる、日本を代表する哲学者だ。彼は茶の湯を愛し、この建物を「田舎家」と呼んで愛用した。

明治中期から昭和戦前期にかけて、茶の湯を趣味とする富裕層の間で「田舎家」と呼ばれる日本家屋が数多く作られたが、現存するものはごくわずかとなっている。和辻邸は、この貴重な文化様式の現存例として、建築史上極めて重要な意味を持つ。
川喜多夫妻による三度目の移築
そして昭和36年(1961年)、和辻哲郎の死後、この建物は三度目の移築を経験する。映画製作者の川喜多長政・かしこ夫妻がこの建物を鎌倉に移築したのだ。
川喜多夫妻は、戦前から戦後にかけて日本の映画界に多大な貢献をした人物である。東和映画(現・東宝東和)の創業者である長政と、「日本映画の母」と称されたかしこ。二人は数々のヨーロッパ映画を日本に紹介し、同時に日本映画を世界に広めた国際的な映画人だった。


鎌倉に移築された旧和辻邸は、海外から訪れる映画監督や映画スターたちを迎える場として使用された。フランソワ・トリュフォー、サタジット・レイ、アラン・ドロンといった世界的な映画人たちが、この建物で日本文化に触れ、川喜多夫妻との交流を深めた。江戸時代の民家が、国際映画文化のサロンへと変貌を遂げた瞬間である。
建築的特徴と民家の魅力
建物内部に足を踏み入れると、まず目を引くのが太い梁や柱に支えられた土間や居間である。天井を見上げれば、黒光りする太い梁が力強く交差し、長い年月を経た木材の重厚感が空間全体を支配している。これこそが、江戸後期の民家建築が持つ構造美である。


和室には和辻哲郎氏が書斎として使っていた部屋があり、作りつけの書棚が残されている。哲学者が思索を重ねた空間は、今も静謐な雰囲気を湛えている。壁に埋め込まれた書棚は、当時の知識人の生活様式を今に伝える貴重な証人だ。
特筆すべきは、居間の隅に切られた炉と、畳の上に置かれたテーブルと椅子の組み合わせである。これは川喜多夫妻が外国からの客人をもてなすために設えたもので、伝統的な日本家屋に西洋式の家具を配した和洋折衷の空間となっている。炉端で語らいながらも椅子に腰掛けるという、まさに文化の融合が目に見える形で残されている。
景観重要建造物としての価値
旧市街地の谷戸の高台に建つこの建物は、背後の山並みと桟瓦葺きの屋根が調和した和風建築として、鎌倉の景観を特徴づける存在となっている。黒板塀に囲まれた敷地は、周囲の緑と見事に調和し、古都鎌倉らしい風情を醸し出している。


その価値が認められ、平成22年(2010年)9月1日、景観重要建造物に指定された。景観法に基づくこの指定制度は、地域の景観上重要な建造物を保全し、後世に継承していくための仕組みである。
同じ敷地内には、平成22年(2010年)4月に開館した鎌倉市川喜多映画記念館の母屋があり、こちらは展示室や映像資料室として一般に公開されている。母屋は平屋建ての数寄屋造り風の和風建築で、旧和辻邸とともに、川喜多邸全体として統一された景観を形成している。
限られた公開機会を逃さずに
旧川喜多邸別邸は、年2回の春と秋に一般公開されている。2025年秋の公開は10月4日から5日の2日間、10時から16時まで。また、11月には展示を伴う特別公開も予定されている。さらに、企画展開催中には解説付き見学会(要展示観覧料、約20分)も実施されており、より深く建物を理解する機会が提供されている。


アクセスは、JR鎌倉駅・江ノ電鎌倉駅東口から小町通りを八幡宮方面へ徒歩約8分。駐車場はないため、公共交通機関の利用が推奨される。鶴岡八幡宮参拝と合わせて訪れるのも良いだろう。
建築が語る文化交流の歴史
江戸時代の大工たちが組み上げた民家の骨格。哲学者が愛した書斎の静寂。そして国際的な映画人たちが集った文化サロンとしての記憶。旧川喜多邸別邸は、一つの建物の中に、日本の近代史における文化交流の諸相が凝縮されている。


三度の移築という数奇な運命を辿りながらも、建物は江戸時代の構造を保ち続けている。太い梁と柱が支える空間は、時代や用途が変わっても、日本建築の本質的な美しさを失わない。それこそが、この建物が今も多くの人々を惹きつけ続ける理由なのだろう。
鎌倉を訪れる機会があれば、ぜひ公開日に合わせて足を運んでいただきたい。江戸から昭和、そして現代へと続く建築の旅路に、きっとあなたも魅了されるはずだ。
旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)
- 所在地:神奈川県鎌倉市雪ノ下2-2-12
- 建築年代:江戸時代後期(移築は1938年、1961年)
- 構造:木造平屋建て、桟瓦葺き
- 指定:景観重要建造物(平成22年9月1日指定)
- 公開:春・秋の年2回、特別公開時
- アクセス:JR鎌倉駅東口から徒歩約8分
- 〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目2


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