前日の建築探訪の余韻に浸りながら、二日目は広島市内をゆっくりと散策することにしました。この街を巡る最良のパートナーは、市民に愛され続ける広島電鉄の路面電車です。現代の自動車社会にあって、なお都市の動脈として機能し続けるこの交通システムには、単なる移動手段を超えた深い建築的・都市計画的意味が込められています。
100年を超える歴史を刻む広島電鉄
広島の路面電車の歴史は、明治時代の終わりごろ、広島城の堀を埋立てることになり、その埋立地に路面電車を敷設しようという機運が高まったことに始まります。当初は東京の松永安左衛門、福沢桃介のコンビが「広島電気鉄道株式会社」を設立し、大阪の大林組社長、大林芳五郎も「広島電気軌道株式会社」を設立して競合状態となりましたが、最終的に両者の合意により事業が開始されました。

現在の広島電鉄株式会社は1942年(昭和17年)4月10日に広島瓦斯電軌より分離設立され、日本最大の路面電車事業者として運営されています。特筆すべきは、戦後復興期においても路面電車システムを維持し続けたことで、多くの都市が地下鉄やバスシステムに移行する中、広島は独自の都市交通体系を築き上げてきました。

広島市の中心部(デルタ地域)を東西に貫く本線は、紙屋町・八丁堀といった都心(中心業務地区)とJR駅(広島駅・西広島駅)とを結ぶ役割を持ち、世界遺産の原爆ドームの前も経由しています。この路線は荒神橋(猿猴川)、稲荷大橋(京橋川)、相生橋(旧太田川)、広電天満橋(天満川)、新己斐橋(太田川放水路)と5つの橋を渡り、デルタ都市広島の地理的特性を如実に表現した都市インフラとなっています。
都市を織りなす軌道という建築
路面電車の軌道は、都市建築の一部として捉えることができます。大半の区間は相生通り、寺町通り、平和大通りなど幅員の広い幹線道路の併用軌道として敷設されており、広島の都市計画そのものと密接に関わっています。
注目すべきは2025年春に開通予定の新線「駅前大橋ルート」で、広島駅から稲荷町交差点を経て、比治山町交差点までの1.1㎞区間に新設される路線です。これは100年に一度のビッグプロジェクトと位置づけられ、広島駅周辺の再開発と連動した都市機能の更新を象徴しています。

軌道専用橋である広電天満橋は、路面電車システムにおける建築的な見どころの一つです。この橋は単なる交通インフラを超え、都市の風景を構成する重要な建築要素として機能しています。車窓から見える広島の街並みは、路面電車という移動する建築空間から眺める都市のパノラマとして、独特の建築体験を提供してくれます。
海に浮かぶ建築の奇跡「厳島神社」
広島電鉄で宮島口へ向かい、フェリーで厳島へ渡ると、そこには日本建築史上最も劇的な空間の一つが待っています。厳島神社は推古天皇元年(593年)、佐伯鞍職が創建されましたが、現在見ることのできる壮大な社殿群は平安時代に栄華を極めた平清盛が造営したもので、清盛が仁平二年(1152)に修復、さらに仁安三年(1168)に修造した時期に、現在の規模が確立されました。

建築的に最も興味深いのは、当時の貴族の住宅であった寝殿造りを神社建築に適用したことです。これは神社建築の歴史において画期的な試みでした。平清盛と、時の神主・佐伯景弘によって整備された壮大な社殿群は、平安時代の浄土信仰に基づく極楽浄土を具現化したものと考えられており、建築直前に佐伯景弘は宇治の平等院阿弥陀堂の秀麗な佇まいを目にし、厳島神社にも浄土信仰を取り入れたとされています。

社殿が海の上に建てられたのも、「神聖な島を傷つけないように」という配慮からでした。現在、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に、14棟が重要文化財に指定されており、1996年にユネスコ世界文化遺産に登録されています。
海上建築の工学的挑戦
厳島神社の大鳥居は、建築工学的にも注目すべき構造物です。海上に立つ高さ16mの大鳥居(重要文化財)は日本三大鳥居の1つとして知られていますが、高さ約16メートル、重さ約60トンの大鳥居は、海に直接建てられていますが、基礎部分にはコンクリートなどは使われていません。代わりに、鳥居の自重によって安定を保つという、古来からの建築技術が用いられています。

潮の満ち引きによって表情を変える社殿群は、自然と建築の関係性を考える上で極めて重要な事例です。満潮時には海に浮かんでいるように見え、干潮時には歩いて鳥居まで近づくことができるという、時間軸を含めた四次元的な建築体験を提供しています。

厳島神社の平舞台(国宝:附指定)は日本三舞台の1つに数えられる建築物で、海上での舞楽奉納という独特の空間使用を可能にしています。これは建築と芸能が一体となった総合芸術空間として、世界的にも類例のない試みといえるでしょう。
移動する建築、静止する建築
二日間の広島建築巡りを通じて印象的だったのは、路面電車という「移動する建築空間」と厳島神社という「静止した建築空間」の対比でした。前者は近代都市の機能性を体現し、後者は古来からの精神性を表現しています。
路面電車の車窓から眺める広島の街並みは、都市という巨大な建築作品を移動しながら体験する建築鑑賞の一形態です。一方、厳島神社では、潮の満ち引きという自然のリズムに合わせて、建築空間が時間とともに変化していく様子を体験できます。
現代の建築が効率性や機能性を追求する中で、広島の路面電車と厳島神社は、建築と都市、建築と自然、建築と時間という根本的な関係性について、深い示唆を与えてくれる貴重な建築遺産といえるでしょう。これらの建築との出会いは、単なる観光を超えた、建築思想との対話の場となりました。


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