軽井沢の避暑地を象徴する数ある別荘の中でも、特別な存在感を放つ一棟の洋館がある。旧朝吹山荘、通称「睡鳩荘」。塩沢湖の清らかな水を映しこむように佇むこの建物は、近代日本建築史を代表する建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した傑作であり、昭和初期における山荘建築の白眉ともいわれる建造物だ。かつて軽井沢本通りの愛宕山に建てられていたこの別荘が、2008年に現在の地へ移築されてから15年以上が経ち、今も多くの訪問者を魅了し続けている。
ヴォーリズと軽井沢 — 伝道者にして建築家
睡鳩荘の設計者ウィリアム・メレル・ヴォーリズについて語ることなしには、この建物の本質には到達できない。アメリカのインディアナ州出身のヴォーリズは、1905年にキリスト教の伝道のため来日した。その後、近江兄弟社を創業してメンターム事業で成功を収める一方、建築家としても活躍。明治後期から昭和初期にかけて、軽井沢だけで数十棟の建造物を手がけた建築界の巨匠である。

ヴォーリズの建築哲学で最も特筆すべき点は、依頼主の要望と生活の質を最優先とする姿勢だった。様々な様式や理論を使いこなしながらも、自身の建築的主張よりも、実際に住む人間の快適性や健康への配慮を何よりも大切にしたとされている。この思想は、睡鳩荘の随所に感じられる「住み心地」へのこだわりとなって表現されているのだ。
実業家朝吹常吉と英国への憧れ
睡鳩荘の施主・朝吹常吉(1877-1955)は、単なる実業家ではなく、異文化への深い理解と実行力を持った経営者だった。慶應義塾での学業を経て、ロンドン大学に留学して経済学を修めた彼は、帰国後も日本銀行、三井物産ニューヨーク支店、三越、帝国生命保険など、時代の最先端企業で要職を歴任。さらに妻の磯子ともにテニスの名手で、大正11年には日本庭球協会の初代会長に就任している。
英国での学生生活で培われた西洋文化への造詣深さと、実業界での成功によって得られた資力——両者が融合したとき、ヴォーリズとの出会いが生まれた。朝吹は単に西洋建築の外形を日本に移植することではなく、英国の家族生活の本質を軽井沢で再現することを望んだ。その想いがヴォーリズに正確に伝わったからこそ、昭和6年に竣工した睡鳩荘は、単なる別荘建築にとどまらない、文化交流の結晶となったのである。
建築的特徴 — 野趣と洗練の融合
睡鳩荘は、木造地上2階建ての切妻造り。外壁には北米から輸入された松材を用い、ログキャビン風の羽目板張りとしている。2階の外壁には菱形のレリーフ調の装飾を施し、白で統一された手摺と窓枠が、ベンガラ色の壁に美しく対照をなしている。屋根は塩焼き瓦の桟瓦葺きとし、バランス良く配置されたモルタル塗の煙突がヴォーリズの設計美学を象徴している。
内部は、朝吹の要望を最大限に反映した設計となっている。1階の中心は、36畳相当の広大な広間だ。これは中世英国のグレートホール様式を現代に適用した空間で、太い松の梁を現しにした天井、自然石積みの暖炉、杉皮を貼った腰板が野趣あふれる雰囲気を醸し出している。朝吹の長女で後にフランス文学者となる登水子は、この広間を「日本風に小さく区切られた部屋よりも、一家団欒のできる場所」と回想している。

フランス窓に似た床面まで達する両開きガラス窓は、採光と通風に細心の配慮を施した結果だ。開き放つと、奥行きのあるテラスと一続きの空間となり、来客を迎える社交の場へと変化する。玄関を設けず、この窓が建物への主要な出入口となるという大胆な設計は、軽井沢の気候と家族の生活様式を深く理解したヴォーリズだからこその決断である。
広間に置かれたダイニングテーブルはアメリカから取り寄せられたもの。シックな豪華さを演出する無垢材のテーブルの上に、登水子がフランスで購入した赤いカーテンが濃茶色を基調とする室内空間を彩る。暖炉には今も火を入れることができ、当時の生活の豊かさが現在まで継承されている。
2階は朝吹一家の居住空間。東端の主寝室、登水子の書斎、西側の竹柄軽井沢彫テーブルが置かれた寝室、そして来客用寝室へと続く4つの空間が配置されている。階段は勾配が緩やかに設計され、踏み板の奥行きも広く、年配の家族や来客への配慮が明確に読み取れる。1階と2階の間には防音のためおが屑が敷き詰められ、夜間の音環境へのこだわりも見て取れる。
文化的意義 — 実業と文化を結ぶ架け橋
睡鳩荘は、昭和30年の朝吹常吉の死去後、長女の登水子へと受け継がれた。フランス文学の翻訳家としてベストセラーを数多く世に送り出した登水子は、毎年夏をこの別荘で過ごしながら、創作活動を続けた。彼女が執筆したフランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』の翻訳は戦後文学を代表する作品の一つとなり、軽井沢ゆかりの文学者として登水子の名は今も文学史に刻まれている。

朝吹家は三代続く一族であるが、実業から文化・芸術へと活動領域を広げていった。常吉の長男は木琴の研究家、三男はフランス文学教授、孫に詩人、曾孫に芥川賞作家を数える。実業の成功が文化的な豊かさを生み出し、それがさらに次世代へと伝播していく——睡鳩荘はそうした朝吹家の系譜そのものを物語る建造物なのである。
文化財指定と現代への継承
建物の歴史的価値が広く認識されたのは2010年のこと。平成22年9月1日、睡鳩荘は国登録有形文化財に指定された。同時に軽井沢町の景観重要建造物としても指定を受け、建築史上における重要性とともに、軽井沢の景観を特徴づける存在として位置づけられたのだ。
2008年の塩沢湖畔への移築は、単なる物理的な移動ではなく、この建造物の文化的意義を次世代へ継承するための英断だった。かつて愛宕山の山間に建つ別荘として、限定された来客のためだけに存在していた睡鳩荘が、多くの国民に公開されるようになったことで、昭和初期の山荘建築文化がより広く理解される契機となったのである。
訪問記 — 時間が止まったような空間
睡鳩荘は軽井沢タリアセン内に位置し、広い敷地内の美術館やレストランと一体の複合施設として機能している。訪問者が最初に目にするのは、薄緑の芝生に浮かぶようにして佇む洋館の優美な姿だ。白い手摺と窓枠が印象的な外観は、90年以上前の建築とは思えないほどの洗練を今も保ち続けている。


建物内に足を踏み入れると、時間が穏やかに流れているような感覚に包まれる。広間の天井を見上げれば、太い松の梁が力強く交差し、長年の歳月を物語る木材の表情が空間全体を支配している。これがヴォーリズの建築美学の本質——派手な装飾ではなく、素材そのものの重厚感と構造的な美しさである。
2階の登水子の書斎には、当時の知識人の生活が凝結されている。作りつけの書棚に並ぶ本の一冊一冊が、創作の時間を物語っているようだ。スタジオジブリの映画『思い出のマーニー』のモデルとなったとも言われるこの空間は、洋館と人間の生活が完璧に調和した状態を今に伝える貴重な存在である。
アクセス情報と公開状況
睡鳩荘への訪問は、軽井沢タリアセンへの入園とセットで楽しむことになる。最寄りのアクセスは、JR軽井沢駅から北軽井沢方面へ向かい、新幹線軽井沢駅からは車で約10分。公共交通機関をご利用の場合は、JR軽井沢駅から「南軽循環線」バスで「軽井沢タリアセン」停留所下車が便利である。
駐車場は軽井沢タリアセン内に完備されており、普通乗用車の場合1回500円の料金がかかる。夏季は観光客で混雑することが多いため、朝早い時間帯の訪問をお勧めする。
睡鳩荘の入館料は、時期によって異なるようだ。展覧会開催時には入館料がかかることもあれば、特定の期間は無料で公開されることもあるため、訪問前に軽井沢タリアセン(電話0267-46-6161)への確認をお勧めする。通常は通年公開されているが、展覧会開催時には臨時休館することもある。
特に春から秋にかけては、軽井沢の清々しい気候と相まって、睡鳩荘の魅力は最高潮に達する。ヴォーリズが意図した「居心地の良さ」を肌で感じることができるのは、この季節である。
軽井沢建築巡りの拠点として
睡鳩荘は、軽井沢の別荘建築文化を理解するうえで欠かせない建造物である。昭和初期の実業家がいかなる想いで、どのような空間を希求したのか——その答えが、この建物の随所に見出せるのだ。
ヴォーリズの軽井沢での活動は睡鳩荘にとどまらない。軽井沢サナトリウムや旧川崎家別荘など、多くの傑作がこの地に存在する。睡鳩荘を起点として、軽井沢の建築巡りを展開することで、近代日本建築史が一層深い理解へと変わる。
建築が語る時代、そして家族が過ごした時間——睡鳩荘はそのすべてを現在に伝え続ける稀有な存在なのである。軽井沢を訪れる際には、ぜひ湖畔に佇むこの洋館を訪ねていただきたい。ヴォーリズと朝吹の想いが織り交ぜられた空間で、日本の近代文化を感じることができるだろう。
旧朝吹山荘(睡鳩荘)
- 所在地:長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢 塩沢湖畔(軽井沢タリアセン内)
- 竣工年代:昭和6年(1931年)
- 設計者:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(W.M. Vories)
- 構造:木造2階建て、切妻造り、桟瓦葺き
- 指定:国登録有形文化財(2017年登録)、軽井沢町景観重要建造物(2009年指定)
- 入館料:今回は無料で入れました。通常は不明です。
- 軽井沢タリアセン入園料:大人900円、小中学生400円
- 駐車場:軽井沢タリアセン駐車場があります。行った日は無料で駐車できましたが、通常は有料のようです。
- アクセス:JR軽井沢駅から南軽循環線バスで「軽井沢タリアセン」下車、またはお車で約10分
- 問い合わせ:軽井沢タリアセン(0267-46-6161)
- 公開状況:通年公開(展覧会開催時は臨時休館の場合あり)


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