世界遺産・屋久島で巡る樹齢千年の建築素材 〜江戸の名建築を支えた屋久杉の森〜

自然

「1か月で35日雨が降る」と言われる屋久島。この言葉に少々の不安を抱えながら訪れた今回の旅だったが、幸運にも快晴に恵まれた。標高1,300mの原生林を目指すハイキングは、建築に携わる者として、かつて日本の名建築を支えた貴重な木材資源の源泉を訪ねる貴重な体験となった。

日本建築史を支えた屋久杉という素材

屋久島の標高500m以上の山地に自生するスギのうち、樹齢1,000年を超えるものを「屋久杉」と呼ぶ。一般的な杉の寿命が500年余りである中、屋久杉が千年を超えて生き続けるのは、この島特有の気候と、屋久島の山々が霊山とされ御神木としてあがめられていたためという理由がある。

屋久杉が建築材として本格的に利用されるようになったのは、1595年の豊臣秀吉による京都方広寺の建築材調達がきっかけとされる。島津氏の重臣、伊集院忠棟らが調査に来島した記録が残されており、これが史実として確認できる最古の利用例だ。

江戸時代の「平木本位制」という特異な経済

江戸時代初期の1640年頃、屋久島出身の儒学者・泊如竹が島民の貧困を目にして屋久杉伐採を島津家に献策したことで、本格的な伐採が始まる。屋久杉は薩摩藩により専売制のもとにおかれ、島民は年貢として主に「平木」と呼ばれる屋根材を納めた。米の代わりに屋久杉を納める、いわば「平木本位制」ともいうべき経済統制が行われたのだ。平木に割るには木目が素直でないといけないため、木目が複雑に入り組んだ巨木は切り残された。この事実が、現在私たちが目にする縄文杉をはじめとする巨大な屋久杉を守ることに繋がったのは皮肉な歴史と言えよう。

江戸時代末期までに屋久島の屋久杉の5〜7割が伐採されたとされる。機械のない時代、巨大な屋久杉を小さく割り、人が背負って十数キロもの山奥から険しい山道を海岸へと運び出す作業は想像を絶する重労働だったに違いない。

縄文杉との対面 〜建築材にならなかった巨木〜

標高1,300mの原生林に佇む縄文杉。樹高25.3m、胸高周囲16.4m、推定樹齢2,170年〜7,200年で、現在確認されている中で最大の杉だ。背が低いずんぐりした樹形は台風の常襲地帯に育つ屋久杉の特徴をよく表しており、凸凹の激しい幹は江戸時代に利用できない巨木として切り残されたことを示している。

登山道を歩きながら感じたのは、この森全体が日本の建築史そのものだということだ。京都の寺社、江戸の武家屋敷、庶民の家屋まで、屋久杉という素材は日本建築の骨格を形成してきた。しかし現在、屋久杉は2019年に競り自体も全面禁止となり、新たに入手することは不可能な木材となっている。

今回のハイキングで目にした屋久杉たちは、もはや建築素材としてではなく、世界自然遺産として人類全体で守るべき存在へと変わった。快晴の森の中、樹齢数千年の巨木を見上げながら、建築と自然保護の両立について深く考えさせられる一日となった。これから屋久島を訪れる建築関係者の方々には、ぜひこの歴史的背景を知った上で、森を歩いていただきたい。

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