朝靄が海面に薄く漂う早朝、私は宮城県松島へと向かった。「松島や ああ松島や 松島や」と芭蕉が詠んだとされる(実際は後世の作とも言われるが)この地への憧れを胸に、日本三景の一つとして名高い景勝地を巡る旅が始まる。
西行戻しの松公園 〜絶景への序章〜
まず足を向けたのは、松島湾を一望できる西行戻しの松公園。標高56メートルの丘陵地に位置するこの公園からの眺望は、まさに息を呑むほどの美しさだった。
園内を緩やかに上っていくと、次第に視界が開け、やがて松島湾の全貌が目の前に広がる。260余りの島々が点在する湾内は、まるで日本画の世界から抜け出してきたかのような幻想的な光景だ。島々の上に生い茂る松の緑と、朝日に輝く海面の青、そして遠くに霞む山々が織りなす色彩の調和は、何時間眺めていても飽きることがない。
西行法師がこの地で松島の美しさに心を奪われ、出家の旅を一時中断して都に戻ったという言い伝えが公園名の由来。確かに、この景色を前にすれば、どんなに固い決意も揺らいでしまうかもしれない。

瑞巌寺と五大堂 〜歴史の重みと海上の祈り〜
松島の中心部へ降り立ち、次に向かったのは瑞巌寺。臨済宗妙心寺派の古刹で、伊達政宗の菩提寺としても知られるこの寺院は、松島観光の要所でもある。
長い参道を歩きながら、両側に立ち並ぶ杉の古木に歴史の重みを感じる。本堂や庫裏は国宝に指定されており、桃山時代の華麗な装飾と荘厳な雰囲気が見事に調和している。伊達政宗が心血を注いで建立したという本堂は、繊細な彫刻と豪華絢爛な襖絵で彩られ、戦国武将の美意識の高さを物語っている。

瑞巌寺から歩いて数分、海岸沿いに建つ五大堂へ足を向けた。平安時代初期、慈覚大師円仁によって建立されたと伝わるこの小さな御堂は、松島のシンボル的存在だ。海に突き出た小島に建つ朱塗りの建物は、満潮時には海に浮かんでいるように見え、神秘的な美しさを醸し出している。
透かし橋と呼ばれる小さな橋を渡って五大堂に向かう際、足元の隙間から海が見える造りになっているのは、参拝者に気を引き締めさせるための工夫だという。確かに、一歩一歩慎重に歩きながら、自然と心が清められていくのを感じた。
宮島 〜住宅街に佇む古の聖地〜
五大堂を後にし、松島の中心部から少し離れた路地裏へと足を向けた。閑静な住宅街の一角に、ひっそりと佇む史跡「宮島」がある。観光地の喧騒から離れたこの場所は、地元の人々に静かに守られ続けてきた聖なる空間だった。
数千年から数万年前、この一帯が海の中だった時代の名残として、目の前のくぼみは人工的なものではなく、波の浸食によってできたものだという。今は住宅街の中にありながら、太古の海の記憶を宿す貴重な地質遺産でもある。

昔からこの岩は「みやじま」または「みやこじま」と呼ばれており、中世にはこの岩の前で僧侶が修行をしていたと言われている。現在の静かな住宅街からは想像しにくいが、かつてここで座禅を組み、厳しい修行に励んだ僧たちがいたのだ。
岩肌には長い年月をかけて自然が造り出した独特の造形が刻まれており、西暦1600年前後の瑞巌寺建立の時代には、この地にまつわる様々な記録も残されている。住宅街の中にひっそりと残るこの史跡は、松島の奥深い歴史と、地域の人々の文化財への思いを静かに物語っていた。
渡月橋と雄島 〜静寂と瞑想の島〜
午後は、朱塗りの渡月橋を渡って雄島へ向かった。全長252メートルのこの橋は、松島湾内でも特に神秘的な雰囲気を持つ雄島への唯一のアクセス路だ。
雄島は古くから修行僧たちが瞑想の場として利用してきた霊島で、島内には多数の岩窟や石仏が点在している。島を一周する遊歩道を歩きながら、岩壁に刻まれた仏像や経文を見つめていると、時の流れが止まったような不思議な感覚に包まれる。

特に印象深かったのは、島の奥にある見仏上人の座禅石。この大きな岩の上で、かつて多くの修行僧が座禅を組み、悟りを求めたのだろう。波音だけが響く静寂の中で、しばし瞑想の時を過ごした。
福浦橋と福浦島 〜恋人の聖地での夕暮れ〜
一日の締めくくりは、「出会い橋」とも呼ばれる福浦橋を渡り、福浦島での散策だった。全長252メートルの朱塗りの橋は、夕日に染まって一層美しく輝いていた。
福浦島は「恋人の聖地」として認定されており、橋の途中には多くのカップルが愛を誓い合った証である南京錠がずらりと並んでいる。島内には遊歩道が整備されており、四季折々の植物を楽しみながら散策することができる。
島の先端にある展望台からは、松島湾の島々を別の角度から眺めることができ、夕暮れ時の幻想的な光景は一日の疲れを忘れさせてくれる美しさだった。夕日が海面に黄金の道を作り、島影がシルエットとなって浮かび上がる様子は、まさに絵画のような美しさだった。
松島が教えてくれたもの
一日を通じて松島を巡り歩きながら、この地が日本三景として愛され続ける理由を肌で感じることができた。自然の造形美と人間の築いた歴史的建造物が見事に調和し、訪れる人々の心に深い感動を与える稀有な場所。
西行法師や松尾芭蕉をはじめ、多くの文人墨客がこの地に魅了され、数々の作品を残してきたのも納得できる。現代に生きる私たちも、忙しい日常を離れてこの美しい景観に身を委ねることで、心の奥底にある何か大切なものを思い出すことができるのではないだろうか。
松島湾に沈む夕日を見送りながら、この素晴らしい一日への感謝の気持ちとともに、いつかまた必ずこの地を訪れたいという思いを胸に、帰路についた。日本の美の真髄を体験できた松島の旅は、きっと長く心に残る貴重な思い出となるだろう。
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