秋のひと時、目黒区駒場公園の緑豊かな敷地を歩いていると、イギリスの郊外から現れたかのような優雅な洋館と、それに寄り添う風雅な和館が姿を現します。旧前田家本邸、それは昭和初期の日本建築界の粋を集めた傑作であり、現在は国の重要文化財として私たちに昔日の栄華を物語りかけています。

建築の背景と豪華設計陣
この邸宅が建設されたのは昭和4年(1929年)洋館、昭和5年(1930年)和館の竣工。旧加賀藩主・前田家第16代当主の前田利為侯爵が、関東大震災後に本郷から移転した新邸として建築しました。大正15年(1926年)に東京帝国大学との土地等価交換により現在の駒場の地を得て、当初は洋館のみの予定でしたが、後に外賓接遇のための施設として和館も追加されました。
この建物の真の価値は、設計に携わった人物たちの顔ぶれにあります。設計監督者は東京帝国大学教授の塚本靖工学博士。洋館の実際の設計を手がけたのは宮内省内匠寮工務課技師の高橋貞太郎(1892-1970)で、聖徳記念絵画館や学士会館、独立後は高島屋東京店なども設計した俊英です。和館設計は帝室技芸員の佐々木岩次郎(1853-1936)が担当し、平安神宮なども手がけた和風建築の巨匠でした。茶室待合には木村清兵衛が配置されるなど、当時の日本における最高峰の建築技術者たちが結集したプロジェクトでした。
洋館の建築的特徴
洋館の外観は、イギリスのカントリーハウスを彷彿とさせる重厚な佇まいです。スクラッチタイル(引っ掻き仕上げタイル)の外壁と、張り出した車寄せのとんがり屋根の塔が印象的です。南面のベランダ上部には翼を持つライオン像が配され、洋館全体を見守る威厳ある存在感を放っています。
内部の1階は外交団や皇族を招くパーティーが催される社交の場で、特に大食堂は晩餐会における最重要空間です。白大理石のマントルピースには深く彫り込まれた唐草文様が施され、上部の壁面には「金唐紙」が張られています。金唐紙とは、ヨーロッパの装飾品「金唐革」を模して和紙で製作された貴重な装飾材料です。

2階は家族の生活の場で、婦人室のマントルピースは柔らかな印象を与える設計となっており、葡萄唐草の浅いレリーフが優美な表情を創出。グリルには小菊をモチーフとしたデザインが採用され、細部に至るまで日本的感性が織り込まれています。

最もドラマチックな空間は階段のある広間で、階段上部の透かし窓には仏教的モチーフである宝相華唐草が取り入れられています。照明器具も見どころで、各部屋の照明吊元の天井レリーフは多様にデザインされ、天井換気口のグリルや玄関の引き手金具に至るまで、すべてが意匠として計画されています。

和館の美意識と茶室の世界
洋館の華やかさとは対照的に、和館は日本建築の粋を極めた静寂な美の空間です。佐々木岩次郎の設計による和館は、築山と流れに囲まれた回遊式庭園と一体となって、日本古来の美意識を体現しています。襖の引き手に前田家の家紋が施されるなど、細部にわたって品格ある意匠が貫かれ、木村清兵衛が手がけた茶室待合は、侘寂の精神を現代に伝える貴重な文化的遺産です。

洋館と和館を結ぶ動線計画も巧妙で、国際的な社交の場である洋館から、日本の伝統文化を披露する和館へと来客を自然に導く空間構成が実現されています。庭園は両建物を有機的につなぎ、四季折々の表情で訪れる人々の心を和ませています。

現在への継承
戦後、この建物は連合軍に接収され、リッジウェイ連合軍最高司令官官邸として使用されました。昭和24年(1949年)に煎茶室が金沢の成巽閣へ移築復元され、昭和39年(1964年)に東京都が洋館を買収、昭和42年(1967年)から東京都近代文学博物館として活用されました。和館は昭和50年(1975年)に目黒区に移管され、現在は目黒区立駒場公園の一部として管理されています。平成25年(2013年)に洋館・和館ともに国の重要文化財に指定されました。
二つの建築様式が織りなす調和
実際にこの建物群を歩くと、昭和初期という時代の息吹が肌で感じられます。洋館では西洋建築の格調高い空間に日本的感性が巧妙に織り込まれ、和館では伝統的な日本建築の美意識が現代的な機能性と融合しています。これは単なる東西文化の並置ではなく、両者が有機的に結びついた日本近代建築の到達点といえるでしょう。
前田利為が望んだという「質素な暮らし」とは対照的に、この邸宅には当時の最高の技術と芸術性が結集されています。それは単なる住居を超えて、日本が近代国家として国際社会で果たすべき役割を象徴する建築として計画されたからです。洋館の玄関やベランダのプランター、和館の襖引き手に施された前田家の家紋を眺めながら、昭和初期という激動の時代に思いを馳せることができます。
現代の私たちにとって、この建物群は単なる歴史的遺産ではなく、建築が時代精神をいかに体現し得るか、そして異なる文化がいかに調和し得るかを示す生きた教科書なのです。
現在、洋館は水曜日を除く平日と土日祝日の午前9時から午後4時まで無料で一般公開されています(月曜・火曜日は休館)。和館は目黒区立駒場公園として管理されており、駒場東大前駅から徒歩圏内という立地の良さも魅力の一つです。
今回訪れた建造物
旧前田家本邸 〒153-0041 東京都目黒区駒場4丁目3−55
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