水戸城三の丸 弘道館 – 徳川斉昭が創設した日本最大の藩校建築の見どころとアクセス

茨木

水戸市の中心部、JR水戸駅から北へ徒歩約8分の位置に、江戸時代の教育建築として最大級の規模を誇る建造物が佇んでいる。弘道館——天保12年(1841年)に水戸藩第9代藩主・徳川斉昭によって創設された藩校である。その建築は、幾度の戦火を免れ、今も国の特別史跡・重要文化財として、江戸後期の教育思想を体現する空間を今に伝えている。

徳川斉昭の教育理念が形にした建築

弘道館の創設は、単なる学校建設ではなかった。徳川斉昭が目指したのは、「教育によって人心を安定させ、教育を基盤として国を興す」という壮大な理念の実現である。藩校の名前「弘道館」は、藤田東湖が草案を作成した「弘道館記」の冒頭「弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり」に由来する。

この理念を実現するため、斉昭は水戸城三の丸の重臣屋敷を移転させ、約10万5千平方メートルという広大な敷地を確保した。これは藩校としては全国最大の規模である。儒学・国学・武術はもとより、医学・天文学・蘭学など幅広い学問を採り入れた、いわば江戸時代の総合大学というべき教育機関だった。

戸田蓬軒が手がけた建造工事

弘道館の建造を務めたのは戸田蓬軒である。天保12年(1841年)7月に完成し、同年8月1日に仮開館を迎えた。しかし、本開館は安政4年(1857年)5月9日まで待たねばならなかった。この16年間に、孔子廟への孔子神位の安置、鹿島神社への鹿島神宮からの分祀遷座などが段階的に進められ、ようやく完全な形となったのである。

初代教授頭取には会沢正志斎と青山拙斎が就任し、経営にあたる学校奉行には安島帯刀が任命された。こうした人材配置からも、斉昭がこの事業にいかに情熱を注いでいたかが窺える。

重要文化財の建築を巡る

現在、弘道館の敷地は約3万4千平方メートルと当時の約3分の1となっているが、正門・正庁・至善堂という重要な建造物が国の重要文化財として保存されている。

正門は本瓦葺きの四脚門で、藩主が来館する際など正式の場合のみ開門された格式高い門である。柱には明治元年(1868年)の弘道館戦争による弾痕が生々しく残っており、幕末の動乱期に弘道館が歴史の舞台となったことを物語っている。

門をくぐると、正庁の玄関が目に入る。ここで特徴的なのは、建物の大きさに比して重厚な屋根が載せられていることだ。本瓦葺きの屋根は、まさに「ドスンッ」という重量感を持ち、藩校としての威厳を示している。玄関上部には、徳川斉昭自筆の「弘道館」扁額が掲げられており、藩主自らの筆跡が来館者を出迎える。

正庁は「学校御殿」とも呼ばれ、藩主臨席のもと試験や儀式が行われた建物である。諸役会所は来館者控えの間として使用され、床の間には水戸藩の藩医で能書家の松延年が斉昭の命で書いた「尊攘」の掛け軸が掲げられている。正庁正席の間は、藩主が着座して試験の様子を観覧した場所で、床の間には弘道館記碑の拓本が掲げられている。

至善堂は藩主の休息所として使われた建物だが、慶応4年(1868年)4月、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が江戸開城後に水戸へ移り、この至善堂で謹慎生活を送った。幼少期に弘道館で学んだ慶喜が、晩年再びこの地に戻るという数奇な運命を辿った場所でもある。

書院造りの美と構造の妙

弘道館の建築様式は書院造りを基本としながら、藩校という公的性格を反映した格式高い空間構成となっている。太い柱と梁による伝統的な木造軸組構造は、江戸後期の建築技術の粋を集めたものだ。

各部屋の床の間や違い棚、付書院などの意匠は、当時の建築様式を忠実に伝えている。屋根の構造も注目に値する。本瓦葺きの重厚な屋根を支えるために、小屋組には巧みな技術が用いられている。

戦火を乗り越えた建築遺産

弘道館の歴史は平坦ではなかった。明治元年(1868年)10月の弘道館戦争では、諸生党が弘道館に立てこもり、激しい戦闘が繰り広げられた。この際、文館・武館・医学館など多くの建物が銃砲撃により焼失したが、正門・正庁・至善堂は奇跡的に難を逃れた。

さらに昭和20年(1945年)8月2日の水戸空襲では、孔子廟の戟門と左右の土塀を残して焼失するなど、再び戦火に見舞われた。それでも主要な建造物は生き残り、現在まで江戸後期の姿を伝え続けている。

梅の名所としての弘道館

徳川斉昭の意向により、弘道館には設立当初から多くの梅が植えられた。その由来は「種梅記の碑」に記されており、斉昭の漢詩「弘道館に梅花を賞す」には「千本の梅がある」と詠まれている。梅は観賞用としてだけでなく、実を梅干しにして戦に役立てるという実用的な目的も持っていた。

現在、敷地には約60品種800本の梅が植えられており、偕楽園と並ぶ梅の名所となっている。2月下旬から3月上旬にかけて「水戸の梅まつり」が開催され、満開の梅に囲まれた正庁の風景は圧巻である。

敷地内に残る文化財と史跡

孔子廟は、弘道館建学の主旨である「神儒一致」の教義にもとづき、儒学の祖・孔子を祀るために建てられた。大成殿を模した入母屋造り瓦葺で、屋上には鬼犾頭・鬼龍子という2種類の架空の動物像が置かれた特異な構造となっている。空襲で焼失後、昭和45年(1970年)に復元された。

弘道館鹿島神社は、常陸一の宮である鹿島神宮から安政4年(1857年)に分祀された。昭和49年(1974年)の伊勢神宮の式年遷宮の際に風日祈宮の旧殿が譲渡され、翌年移築された貴重な建造物である。

八卦堂には、真弓山から切り出された寒水石(大理石)に刻まれた「弘道館記の碑」が納められている。高さ318cm、幅191cm、厚さ55cmの巨大な石碑で、徳川斉昭の書および篆額で「弘道館記」全文が刻まれている。東日本大震災で碑身の一部が崩落したが、平成25年(2013年)11月に修復が完了した。

アクセスと見学情報

弘道館へのアクセスは、JR水戸駅北口から徒歩約8分と非常に便利である。駅を出て国道50号線を前橋方面へ進み、大銀杏を目印に銀杏坂交差点を右折。三の丸小学校を目指して進むと、左手に弘道館の入口が見えてくる。

バスを利用する場合は、水戸駅北口4番乗り場から「10偕楽園行き」に乗車し、約3分で「弘道館」停留所に到着する(ただし、停車しない便もあるため要確認)。

車でのアクセスは、常磐自動車道水戸ICから約30分、水戸北ICから約20分。弘道館駐車場(水戸市三の丸1-6)があり、駐車券を弘道館料金所で提示すれば入庫から3時間無料となる。満車の場合は、隣接する三の丸庁舎駐車場(水戸市三の丸1-5)や水戸三の丸パーキング(水戸市三の丸1-3-10)の利用も可能だが、こちらは有料となる。

開館時間は季節により異なり、2月20日から9月30日までが9:00~17:00、10月1日から2月19日までが9:00~16:30となっている。休館日は12月29日から12月31日まで。

入館料は大人420円、小中学生210円、70歳以上のシルバー料金も210円。団体(20人以上)の場合は大人320円、小中学生160円となる。なお、水戸城の日本100名城スタンプは、弘道館のチケット売り場で押すことができる。

建築が伝える教育の理想

江戸後期の建築技術。戸田蓬軒が手がけた構造美。そして徳川斉昭が込めた教育への情熱。弘道館は、一つの建造物の中に、近世日本における教育理念の結晶が凝縮されている。

幕末の戦火と昭和の空襲を乗り越えながらも、正門・正庁・至善堂は江戸後期の姿を保ち続けている。重厚な本瓦葺きの屋根と太い柱が支える空間は、時代が変わっても、日本建築の本質的な美しさと機能性を失わない。それこそが、この建物が国の特別史跡・重要文化財として今も多くの人々を惹きつけ続ける理由なのだろう。

水戸を訪れる機会があれば、ぜひ弘道館に足を運んでいただきたい。江戸から明治、そして現代へと続く教育の理想の系譜に、きっとあなたも心を動かされるはずだ。


弘道館

  • 所在地:茨城県水戸市三の丸1-6-29
  • 創設:天保12年(1841年)
  • 創設者:水戸藩第9代藩主・徳川斉昭
  • 建造:戸田蓬軒
  • 構造:木造、本瓦葺き
  • 指定:国の特別史跡(昭和27年)、国の重要文化財・正門・正庁・至善堂(昭和39年)
  • 開館時間:2月20日~9月30日 9:00~17:00、10月1日~2月19日 9:00~16:30
  • 休館日:12月29日~12月31日
  • 入館料:大人420円、小中学生210円、70歳以上210円
  • アクセス:JR水戸駅北口から徒歩約8分
  • 駐車場:弘道館駐車場(入庫から3時間無料)
  • 問い合わせ:弘道館事務所(029-231-4725)

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